牧師さんのノート15:
「復活したキリストのその後(3)」
私は矢板ホーリネス教会の牧師、田中敏信です。
『牧師さんのノート09: 「キリストって復活したの?」』 では、十字架で死なれたイエス・キリストは、「よみがえられた」という事を書きました。
このページに対して「じゃあ、それからどうなったの」というご質問をいただきまして…、一生懸命お答えしようとしています。今回は、第3回目です。
イエス・キリストがよみがえられた後、40日目です。イエス・キリストは弟子達を小高い丘にお集めになりました。
そして弟子達の目の前で、聖書に次のように書かれています。
イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
(使徒行伝1章9節)
ここで、ちょっと。牧師さんらしい事も書かせてください。
上の聖書の言葉の中に、『天に上げられ』とありますね。ただ、「イエス・キリストは、遠く天国に帰られたんだ」という事ではありません。まず『天に上げられ』というのは、イエス・キリストが死に勝利なさった事に対して、「栄冠が与えられた出来事」という意味があります。
オリンピックで金メダルの栄冠に輝く人は、表彰台の1番高い所に立ちますよね。平たく言えば、それに似ているかもしれません。『天に上げられ』という言葉の、2番目の意味は、神様の世界にお入りになったという事です。
といいますのも、『雲に迎えられて』とありますね。この『雲』は、「水蒸気の塊の雲」の事ではありません。そう。入道雲やうろこ雲…といった雲ではないんですね。
イエス・キリストを迎えた雲は、これまた平たい言い方をすると、神様がおられる場所の「入り口」・「境目」みたいなものでしょうか。もう一つ、イエス・キリストが『天に上げられ』という出来事は、「人類の歴史の転換点」という意味があります。
イエス・キリストは、十字架におかかりになる前も、また復活された後も、「弟子達だけ」と、共におられました。こういう時代が終って、新しい時代になったと宣言されているのが、イエス・キリストが『天に上げられ』たという出来事なのです。では「どんな時代になったのか」です。
少し話題が前後しますが、「イエス・キリストは、日曜日の朝よみがえられた」と、前のページに書きました。
ところで皆さんは、日曜日の朝、何をしておられますか。
「1週間に1度の休みの日だから、朝はゆっくり寝ていて、10時くらいにブランチかなあ」
「仕事から開放されて、思いっきり遊んで、次の仕事のための力を蓄えます」
「家族とゆっくり時間を過ごして…といきたい所だけど、込み合っている場所に出かけて、かえって疲れたりして…」あっ。私はもちろん牧師さんですから、「教会の日曜礼拝で聖書のお話をしています」ですね。まっ正確な言い方をすると、「日曜日の朝は神様を礼拝しています」という事です。
この「日曜日の礼拝」は、イエス・キリストがよみがえられた時から、「日曜日」になりました。
旧約聖書の教えでは、「1週間のうちの六日間、一生懸命働いて、七日目に神様の前で安息に地を過ごすように」とあります。つまり元々は土曜日が、神様を礼拝する安息日でした。
これに対して、イエス・キリストのよみがえりを伝える「新約聖書」を基にするキリスト教会は、日曜日を安息日にしています。イエス・キリストを死からよみがえらせて下さった神様を、その日曜日に礼拝するんです。この「日曜日の安息」、つまり「日曜日に休息を取る」という暮らし方って、かなり多くの人の暮らし方ではありませんか。
日曜日の暮らし方は皆さん様々ですが、日曜日をポイントにして私達の暮らしが動いている。ちょっと間接的ですが、世界中のカレンダーが、イエス・キリストがよみがえられた日曜日をポイントにして、動いているわけです。私は思うんですが、これって「イエス・キリストがよみがえられた」という事の、動かせない証言ではないでしょうか。
「イエス・キリストがよみがえられた」のが作り話だったり、熱狂的な弟子の活動の結果などで、世界の歴史が「日曜日を中心に回っていく」なんて事は、ありえないですから。最後にもう一つ。
10年くらい前に読んだ本に、次のような事が書かれていました。誰か物理学者だったと思うんですが…。今、私の本棚を見たんですが、どの本だったかわからなくなってしまいました。だいたいの内容を思い出して書きますね。(正確な引用が出来なくて、申し訳ありません。)
私は、イエスなる人物が死からよみがえったなどという彼らの主張を信じるつもりはない。もし必要なら、彼らの主張の全てを、否定する証拠を突きつける事も出来るだろう。
しかし否定しようのない事実がある事だけは、認めざるを得ない。それは、イエス・キリストがよみがえったと主張する弟子達が、大きく変化したという点である。
彼らは、自分達の変化がよみがえったイエス・キリストによるものだと主張する。もちろん私は、その主張を認めるつもりもないが、しかし彼らが変化した事実だけは、私は認めざるをえない。
「復活したキリストのその後」: 終わり
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