牧師さんのノート23:
「地球の温暖化と聖書」




 私は矢板ホーリネス教会の牧師、田中敏信です。
今回は「地球の温暖化と聖書」がテーマです。

 先日テレビのニュースかなにかで、
「21世紀末の2099年には、日本の平均気温は、最悪、4.8度高くなっている可能性があります」
なんて放送されていました。
まず、温室効果ガスの排出削減を、個人レベルで取り組む。そして、気温が4.8度上がらなかったとしても、雨の量や気温も変化していく事でしょうから、農作物も工夫しなければならないわけですよね…。
と、評論家まがいの事を考えている私ですが、30数年前は違っていました。
今、高校生のころの田中敏信が現れたら、きっと「正義の剣」を振り回したんじゃないかと思います。

「日本の責任者は、なにをしているんだぁ!」
「このままじゃ、人間は皆滅びてしまうじゃないか!
「なに。神様が世界を造られただって。じゃあ、人間がこんなことするのを、どうして止めないんだ!」
「×! ×! ×!」

 そんな田中敏信君も、最近おじさんが板についてきたのか、ちょっとは牧師さんらしくなってきたのか、
「聖書を通して考えると、私達には、何が必要なのかなあ」
なんて、理屈を並べるようになりました。

 まず、聖書の1番初めの旧約聖書「創世記」です。
神様が、天と地と全ての生物を、6日間でお造りなったと書かれているのは、有名な所です。
あっあっ。「そんなのばかばかしくて、読んでいられないよ」なんて、ページを閉じないでくださいね。一生懸命書きますから。

それから、最後にお造りになった最高傑作が、私達人間。
この人間に、神様は、お命じになったんですね。
『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。… [創世記第1章28節] 』

 高校生の田中敏信君が聞いたら、きっと言うでしょうねぇ。
「なに!神様が人間に『地を従わせよ』なんて言ったの。それなら責任者は、やっぱり神様じゃん。この世界を、どうにかしてもらわなきゃぁ!」
「で、人間の方も、この世界を自分勝手に使い続けて、こんなにしてしまったわけ!だめじゃん」

 あぁ。ちょっと落ち着いて。
神様がお造りになった世界を、神様がお造りになった人間が従わせる…。
しかしこの状態は、あまり長く続かなかったんです。
最初の人アダムとエバが、神様のおっしゃる事を無視してしまった。食べてはいけないと命じられていた木から、取って食べてしまった。
他にも、たくさん木はあったんですよ。何百何千もある木。それらの実は自由に食べてよかった。よりにもよって、いけないと命じられていた木から、取って食べなくても…、です。
そして、神様にお従いしなかったアダムとエバは、エデンの園から追い出されてしまったんです。

 はい。田中敏信君、なんですか?
「なんで神様は、そんな物騒な木を、エデンの園に生えさせていたんですか。だめだと言われたら、食べてみたくなるのは人情じゃないですかぁ」
「おぉっ。人情ときましたか。高校生の田中敏信君、おじさんっぽいじゃん」

 神様は、私達人間を「神様の形」にお造りになりました。
姿や形というよりも、考え方・好み・感性…、そして神様の作品全体を従わせるという権威さえも、です。
神様と人間との違いは、ただ一つ。「食べるな」と命じられている木が、あるだけ。
つまり神様と人間との違いは、「人間が神様に従う」という所だけだったんです。
人間は、神様にお従いする。そして神様のご計画に従って、世界を従わせる。
しかし、この関係が、アダムとエバによって壊されてしまった。そして、神様に従わない私達人類が、自分勝手に、神様の作品を使い続けている。
神様のご計画通りに使おうとしても、エデンの園のように、神様のすぐそばにいない。神様のご計画をお聞きする余地も、知る余地もない。
そして暴走!

 はい。田中敏信君、なんでしょうか。
「やっぱり、だめじゃん!」

 いいえ。あきらめないで。
エデンの園から離れてしまった私達人類の所に、神様の方から、来てくださったんです。
イエス・キリストこそ、そのお方です。

 私が高校生の時です。
授業が終って、3・4人で教室の掃除をしていました。開け放っていた窓から、すずめが入ってきました。
しばらく教室の中を飛び回り、黒板の上にとまったり、掃除道具箱の上にとまったり…。なかなか開いている窓から出て行こうとはしません。
窓の傍にいた同級生が、「ぼくの事が怖くて、窓に近づけないんだな」と、窓から離れました。
すぐにすずめは、窓に向かってまっしぐらに飛びました。でも、なんと…。開いていない窓にぶつかって、落ちてしまいました。窓の透明なガラスに、気づかなかったんです。
「そこは、出口じゃない。その右側だよ」と、声を掛けても伝わるはずがありません。
すずめは、もう1度飛び立ち、またガラスに…。3度目は、飛び上がれませんでした。
友人が、すずめをそっと拾い上げて、手のひらにのせました。片方の羽がぐらぐらになっていました。家に連れてかえりましたが、翌朝には、冷たくなっていました。

 神であられるイエス・キリストは、私達と同じ人間として、私達の世界にお生まれくださいました。そして私達に理解できる言葉で、語りかけてくださいました。世界をお造りになったお方のみ心が、よくわかるように、と。
イエス・キリストの地上の命は、十字架で閉じられます。神様にそむいた者達の、そむきの罰を身代わりにお受けになった死が、十字架です。
そう、そのままそむき続けていたら、暴走するままで滅び…。そんな事のないように、イエス・キリストが私達の身代わりに、滅びに向かってくださった。

 十字架の次の次の日の朝、イエス・キリストは、よみがえられました。私達のそむきが、赦された証拠です。
こうして私達は、神様のみ言葉を聞く事ができるようになりました。『地を従わせ』るには、どうしたらいいか、と。
だから私達の世界は、決して滅びなんかでは、終わらない。

【 聖 書 の み 言 葉 】
[ヨハネによる福音書3章16節]

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を
愛して下さった。それは御子を信じる者が
ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

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